昭和43年10月12日 夜の御理解



 私は今朝、朝の御祈念をさして頂く前に、朝の3時半から4時までの間を控えで待ちます。その控えで待たせて頂きます、わずかばかりの時間の間に、これはもう毎朝のことですけれども、もうこれは言葉では言い表せない。もう私だけがいついっておると言うかもしれませんけれども、もう何と言うてよいか分からない。もう本当に有り難い気分に浸らせて頂くのです。この約25分か30分間のあいだなんですけどれもね。
 いわゆる4時の御祈念を奉仕する前の時間なんです。その時にはもう神様からもう、殿様気分ということを頂いた。殿様気分と。これは悦に入っておるというか、よかつのごと思うとるといったようなもの、そういう意味ではない。その後からの御理解を頂いてそれを感じたんですけれども。それが同んなじようなことを今日は私、午後の3時ぐらいからですか、何かテレビ映画があっておりましたが。
 それがあの昔のらしいですね。「風の中の野盗」というか何かいう題名の映画でした。それが、そのいわゆる野盗なんですね、その人はとりわけ、そみなしごで野盗の群れに入っておるというのでしたけれど。ある部落でですね、百姓達から間違えられて、そのまあその元の国の、そこの国の若殿様に思い違えられるわけなんですね。それでその、若様若様と、村の者が呼び、またその自分の同士、連れの人達もそれから若様と言うようになり、そして、まあ皆から大事にされるというような筋で、最後はまあ、いわゆる戦争に巻き込まれていくというような筋の映画でしたけれども。
 そん時に同士がですね、他の者は一生懸命働いておるのに、若様だけはちゃんとしとるというわけ、働いてはならんわけなんですね。その時の台詞にですね、お前は殿様気分でおるというその台詞が聞こえてから、思わず私はそれからその映画を15分か20分でしたけれども、まあ見せてもらったんですけれどもね。今朝私が頂いたそれが殿様気分ということはです、またその映画の中で言うておるその台詞が殿様気分というそれであった。 だからそこのところでも意味は大変違うんですけれどもね。
 私は思うんですけれども、誰でも殿様ではない者が殿様気分になれれるということは有難いですね。その若様が申します、自分は生まれてこの方、こんなに沢山の者から拝まれたり、または大事にされたり若様と言われたことがないって。ですから、そのことをそういうところがございますがね。殿様気分というものがどんなに、まあ有難いものかと。皆に大事に思われ、それはひと時であっても、気分がよいもんであろうと。お金を持たない人が、言わば大臣気分とでも申しましょうかね。
 大臣振る舞いができるといったような、例え一日でも一晩でも大臣遊びでもできるような、そのいわゆる大臣気分に浸らせて頂くことが、まあひとつの夢であるようにですね。私共、金光様の御信心さして頂く者は、いわゆるその殿様気分ならぬ、言うなら神様気分にですね、日にひと時でも浸らせてもらえるようなおかげを頂いたら有り難いことだろうと思うですね。信心とはそれだとこう思うんです。
 わが心が神に向かうて進んでいくのが信心であり、この方のことを生神生神というけれども、みんなもこのようなおかげが受けられるんだと、仰っておられるように、はあ、今こそ生神様の心持ちというか、生神様の境地ではなかろうかと、自分で自分の心が拝みたいような気持ちが日にひと時ぐらいあったらどんなに有り難いことだろうかと。しかもその気分をです、できるならば終日持ち続けれる精進をすることが信心なんです、金光様の御信心とは。自分で自分の心が拝みたい。
 はあこういう心が神様はこんな事を思いよるんじゃなかろうか、神様の心とはこんな心じゃなかろうかと、自分で思えれるような心の状態に、私はなってみる、またなってみようと願わにゃいけんと思うんです。これは私のその殿様気分というか、いわゆる神様気分というのはこれ説明はできません。本当に思うてみると、生神金光大神の境地というものは、私が三十分間の間に感じるいつも、ああいう気分ではなかろうかと思うのです。本当にわれとわが心が拝みたい気持ちになるです。
 それがなかなか不肖なことでございますから、それが本当に夢のように崩れてしまうんですけれども。毎朝の私の朝の3時半から4時までの御祈念の間のあそこで待たしてもらっておるひと時というものは、それはもう本当に何ともかんとも言えん境地です。そういう時間がです30分が1時間1時間が2時間と、自分の心の中に頂けていくようになる稽古。信心とは、わが心が神に向こうていくのを信心と言うのじゃと。
 自分の心を覗いてみると、人を憎んだり、腹が立っておったり、心配しておったり、情けないと思うておったり、よろしくないことを心の中に考えておったり、意地の悪いことを考えておったり。こういう心が心の中にあったんではです、そういう殿様気分、いわゆる神様気分にはなれない。お互い神様に心を向けて、本気で信心の稽古をさして頂いて、一生懸命精進さして頂いておると、時たま自分の心の中に、はあこれが生神金光大神の境地でもあろうか。神様の心とはこういう心ではなかろうかと。
 その神様の心というのが、実を言うたらみんなが持っておるのである。生まれて来る時にすでに神様の心というものを頂いてきておるのだけれども、人間のいわゆる我情とか我欲、様々なよくない心がその神様の心を十重二十重に包んでおるのでございますから、そういう汚い心が取り外され、信心によって改まっていかれる、磨かれていかれる。そこから、ちらっちらっとではあっても神様が顔を覗き出してきなさる。
 そこに信心の楽しみを置かせて頂いたら有り難い。しかもその時間が10分間よりも20分間と長う続かして貰う。所謂われとわが心が拝みたい。信心とは神様を拝む稽古じゃない。信心とは我が自分の心を拝ませて頂く稽古だと四神様は仰っておられるように。自分で自分の心が拝みたいような心。そういう心を目指してまたその日のうちに例えひと時でもそういう心をです、神様気分というかそういう気分に浸らしてもらえれるような楽しみをお互いが多くもっていくということが信心だと思うんですね。
   どうぞ。